必見 お化け大会高校選手権はこうして作られた その2


続きです。

”お化け大会”までの道のり
 しかし、テレビ事業は出だしからつまずいた。視聴率が取れないのである。NHKならいざ知らず、スポンサーあっての民放での低視聴率というのはいただけない話である。なぜ視聴率が取れないのか、その理由を坂田は考えた。

 「ようするにスタンドに客がいないからなんです。テレビのチャンネルを回すとサッカーの試合をやっている。スタンドは閑散としていて画面から熱気が伝わってこない。なにしろ、当時はアナウンサーの声がバックスタンドまで聞こえたくらいですから。これでは、視聴者は面白いとは思わない。」(坂田)。

 こうして視聴者はあっさりとチャンネルを回してしまう。”視聴率を上げるためには観客席を満員にして、その熱気を画面から伝えるしかない”というのが坂田の結論であった。坂田は東奔西走した。

 「全国の学校を駆けずり回りました。教職員会議に出席させてもらって協力をお願いしたり、生徒会長に『サッカーは素晴らしいスポーツだ。君たちも野球だけじゃなくサッカーも応援してやって欲しい』といったりしました。」

 坂田の熱意に揺り動かされ、貸切バスや列車で関西(当時の会場)まで応援に駆けつけた高校も少なくなかった。そんな応援団に対して、日本テレビはハーフタイムにインタビューコーナーを設けて感謝の気持ちとした。

 「われわれは彼らに一円も出せなかった。しかし、一生懸命応援してくれる人々に何か恩返しがしたかった。それがハーフタイムのインタビューでした。その模様が地元で流されれば『テレビに出た』ということで話題になると思ったんです。」(坂田)。

 それでもまだ客席は空席ばかりが目立ち、高校選手権は相変わらずマイナーの域を脱することができなかった。

 「西宮球場には毎年”六甲おろし”が吹いて、大雪が降ったこともありました。あの頃はスタンドがガラガラでした。71年から会場が長居競技場を中心にした大阪地区へ移りましたが、それでもやっぱりガラガラでした」(松本)

 日本テレビは応援団全員をバックスタンドに入れた。メインスタンドに入った一般客もバックスタンドへ誘導した。少しでもテレビ映えがするための苦肉の策であった。応援団が来ない学校も珍しくなかった。「立命館大学の応援団にお願いして、毎試合、応援団のいないチームを応援してもらったこともありました」(坂田)。

”お化け大会”伝説、そして・・
 日本サッカー協会が高校選手権を主催するようになったのは1967年からであり、前年までは毎日新聞が主催していた。そのため当時は大毎(大阪毎日)大会と呼ばれていた。坂田が高校選手権に出場していたときの開会式は、大阪の毎日ホールで行われている。関西で生まれて関西で育った高校選手権ではあったが、関西では甲子園が全てであり、高校サッカーはほとんど注目されなかった。

 ここに、高校選手権の”首都圏開催”が大きく浮上する。

 「日本テレビが高校選手権を仕切るうえで、会場が関西というのは不自然な形でした。それにやはり関西ではお客さんを集めるのに限りがありました」(坂田)

 当然のように関西のサッカー関係者は猛反対をした。しかし「日本サッカーの底辺の拡大と底上げのため」という大義名分が優り、スッタモンダの末に首都圏開催が決定した。

 「高校選手権はそれまで長い間、関西の関係者によって支えられてきた大会でした。それを首都圏へもってきたからには、関西の人々のそれまでの努力に報いるためにも会場を国立競技場しかなかった。」

 1977年1月7日。トーナメントを勝ち抜いたチームの選手たちが国立競技場のピッチに立った。高校生にとって憧れの「国立」である。

 しかしそれは、この55回大会を皮切りして国立競技場で数々の名勝負を繰り広げてきた高校生たちが作り上げた伝統がそう言わせるのであり首都圏開催第1回目となったこの大会の選手たちには当てはまらなかった。

 「国立で開会式をやったときに”再びここへ戻ってくるんだ”という思いはありました。ただ、それは国立で試合をしたいという憧れではなく、ここで優勝するんだという強い気持ちから出たものでした」(松本)。

 とはいうものの国立競技場は6万人を飲み込むスタジアムである。本番で大観衆に圧倒されては本来の力を発揮することはできない。

 松本は試合2時間前に会場入りして、選手たちに「テレビに映るから、いろんなカメラを見なさい」と言って、無人のスタンドやグラウンドに設置されたテレビカメラを覗かせたという。

 「テレビ局の人はいなくても、カメラに電流が流れていたので画像は映りました。子供たちは4、5人ずつに分かれてアッチへ行ったりコッチへ来たりしてかわるがわるカメラを覗いていました」(松本)。

 このリラックス作戦が効を奏したのか、浦和南は劣勢を伝えられた準決勝で帝京をPK戦で下し、決勝では静岡学園を5対4で退け、初の首都圏決戦を制した。国立競技場には5万人の大観衆が詰めかけ、高校選手権の新たな1ページに惜しみない拍手を送った。これが”お化け大会”高校選手権伝説の始まりであった。

 以来、高校選手権は幾多の名選手を輩出し、その多くはJリーグで活躍している。

(中略)

 ヴェルディ川崎の社長に就任した坂田信久もまた、1月1日を最初の目標に置いている。そして1月7日、8日にはスタンドから高校選手権を観戦する。これは坂田家の年中行事になっている。

 高校生が国立競技場でプレーし、大観衆が応援する光景を目にするたびに、坂田の胸に昔の思い出が蘇る。

 そして、こう思う。”きっと、自分が一番楽しい気分で見ているんだろうな”。

 
以上です。


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3 Responses

  1. foot001 より:

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    http://www.rakuten.co.jp/verdy/
    楽天さんもありがたや。

    ipizumiさん 私foot001が高校サッカーの影の面ばかりを書いていたのでipizumiさんが光の面を楽しく取り上げてくれたのでバランスが取れてよかったと思います。

    ナベツネや日本テレビの氏家斉一郎社長が品が無い反サッカーのような方なのに、ヴェルディクラブの坂田信久社長は読売の人じゃないみたいにサッカーを愛してる。 まえから解せなかったらここまで凄いことをやりとげた人だったんですね。坂田信久社長がいたからヴェルディが存続した。そんな気がします。

  2. Yonmo3 より:

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    なるほどそういうことだったんですね。なんで日テレなのかNHKじゃないのか疑問だったのですが、わかりました。その坂田さんの尽力で冬の高校サッカーはメジャーになり、そのときどきスターも生まれましたしね。清水商の川口などはアイドルなみでしたものね。

  3. ipizumi より:

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    Yonmo3さん
    これを読んだ時は本当にびっくりしました。
    当たり前になったお正月の高校選手権にこういう裏があったとは・・・。かつての指導者達にはまだまだ頭があがりません。

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